6月11日(火)北公民館に於いて関係者合せて32名の参加により、菩提自治会連合会、菩提生産森林組合が保存管理する古文書と山地図の見学会が実施されました。

 これは、昨年の古文書見学会に続く第2弾で、特に菩提地区には江戸時代からの古文書や古地図が多く保存されています。

 今回の見学会では、山の境界をめぐり近隣の村々との紛争を領主や代官所の役人に名主、組頭、百姓代の名前と共に訴状、裁許状の記録が保存されています。又絵図には絵師の名前も記録されていました。

 特に「宝暦九巳年(1759)入合山訴訟裁許につき横野・菩提両村請書」の古文書(横野文書)は「宝暦八戌年九月十三日に作成された絵図面を以て御吟味」とあります。

 この紛争は、元はと言えば元禄11寅年(1698)横野村の(さき)地頭(じとう)戸田庄右衛門の知行所で、村高300石の内、(あざ)与治ヶ谷戸、約25石余りを菩提村の領主米倉丹後守に領分渡しすることになった際に、百姓11軒が菩提村の本百姓になったことで、烏尾山への(まぐさ)(かや)、 薪山(まきやま)の入会をめぐり、「元は横野村の百姓であった与治ヶ谷戸村の百姓が入り取っていた秣、薪などを菩提村の百姓も新しく道を作って取った」という横野村の訴えに対して、菩提村は、「烏尾山は往古より菩提村の持山で、山永(やまえい)山手(やまて)(まい)(年貢の事)を納めて秣、薪を苅って来たので入会ではないと主張」、元来、与治ヶ谷戸は菩提村字宮沢と言う所の小名(こな)であり、元禄拾壱寅年に米倉丹後守の領分になり菩提村の本高(もとだか)になったもので、横野村は新道(しんみち)を附けた所を菩提村より新道を附けたと偽って道の差し止めを訴えている。

 これについて宝暦8戌年9月13日作成の「出入立会絵図面を以て御吟味」とある。が証拠として決めがたいと記されている。

 結局この紛争は横野村が新道としている道は菩提村本道より引続きの道であり、新道とは言えず、新道と申し立ては双方とも証拠、書物(かきもの)等がないため申分立ち難いため、よって烏尾山境については、字与治ヶ谷戸畑林(きわ)より引き続きある峯道通り、その峯道を境に西、南は横野村秣山に定め東、北は菩提村秣山とするとの評定を一同が承知したという連判状の内容です。

 次に寛文10戌年(1670)の古文書「相州大住郡菩提村御縄打水帳」を拝見しました。

御縄打水帳は検地帳とも言われ年貢米の徴収の基本になります。

 菩提村は傾斜地が多く田圃は畑の10分の1以下ですから米は余り採れません、その中でも上田(じょうでん)と言われる田圃は特に少なかったようです。

菩提の御縄打水帳には、今で言う田圃や畑のランクが地番と所有者の名前等細かく記されていました。

 寛文10年の御縄打水帳の文書は2冊ありました。

今回の市内研修会では古文書教室の講師である矢内昭夫先生の詳しい解説をいただき、参加者一同大変有意義な研修会になりました。