現在ǸHK放映の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が折り返し点を迎えようとしています。鎌倉が舞台なだけに県下各地域でドラマに関連する話題が取り上げられ、各社マスコミも掲載に当たっては競って力を入れて余念がありません。ドラマに係る人物や事績を中心として映像や活字でさまざまに伝えられています。

 今回のドラマで本市にとって最も関係の深い人物といえばやはり源実朝になるかと思います。現在市指定文化財の史跡となっていて今年は特に参拝する人も多いいとされる田原ふるさと公園近隣の場所に実朝公の御首塚(みしるしづか)はあります。

 実朝は幼名を千幡と言う。兄の頼家(2代将軍)が追放されると12歳の時に征夷大将軍につきます。そして承久元年(1219年)正月27日鶴岡八幡宮にて右大臣拝賀式を終えた後突然別当職の甥の公暁によって暗殺されてしまいました。一時首は見つからないままでしたが、三浦氏の家臣武常晴が密かに持ち去り、秦野の地に波多野忠綱を訪ね、供養を願い出てその後厚く葬られたと伝えられています。

波多野忠綱は僧退耕行勇を招いて実朝の法号金剛寺殿にちなみ金剛寺を建立し供養に努めました。同寺には実朝の彫像が安置されています。木造五輪塔(現在鎌倉国宝館寄託)の代わりに石造の五輪塔がお墓に建っています。

金剛寺境内の阿弥陀堂には実朝公の念持仏として伝わる阿弥陀三尊像が安置されています。近年新たに摸刻の木造五輪塔も置かれています。毎年11月23日には恒例となりました実朝公の供養を中心として「実朝まつり」が盛大に執り行われます。機会がありましたら是非実朝公の御首塚を訪ねて鎌倉時代の秦野の歴史の一齣に夢を馳せてみてはいかがでしょうか。また、塚の近くには実朝の歌とされる「金槐和歌集」の中の一首で「ものいわぬ四方(よも)のけだものすらだにもあわれなるかなや親の子を思う」という実朝研究家佐々木信綱揮毫の歌碑があります。なお、小倉百人一首の中にも実朝の歌が選ばれてあります。

現在でも実朝の誕生日に当たる8月9日と命日にあたる1月27日に墓前にて虚無僧同好会会員による尺八献楽が50年以上にわたって続けられています。

「頼朝はん」と呼ばれる石碑が三廻部地区の田畑の中にあります。碑面には「武皇嘯源大居士」の文字が頼朝の亡くなった年号と共に刻まれています。

鎌倉時代、比叡山天台宗の末寺であった観音院には「頼朝座像」が安置されています。また普段は非公開とされています曾我兄弟の父の仇を討つために柳川不動院の白體不動尊へ捧げたと言われる「仇討の願文」が所蔵されています。

鶴巻地区には和田義盛公ゆかりの西光寺があります。義盛公の別邸(現在の鶴巻陣屋旅館)があり、和田合戦で亡くなった義盛公の菩提を弔うために阿弥陀如来を祀りお堂を建立したのが寺の始まりと言われています。

御家人波多野氏が活躍した中世鎌倉時代の秦野の歴史・文化を学んでみましょう。