治承4年(1180年)源頼朝伊豆で挙兵、石橋山合戦で敗れるがその後わずか2ケ月後に10万の兵を携え鎌倉に入城し日本で最初武士の政権鎌倉幕府を開く、このとき源頼朝に加担しなかったことにより西相模の豪族波多野氏一族は数奇な運命をたどる。
秦野の地名の由来とされる、波多野氏一族は平安時代の半ば藤原秀郷の子孫とされる、藤原秀郷から4代藤原公光が相模の国司の時 もともと河内源氏の家人として仕えていた、佐伯経範が国司の目代(代理)として波多野荘に土着して、開発領主としての初代波多野経範を名のり西相模に勢力を伸ばす。この波多野経範は前九年合戦で源頼義・義家に仕え軍功を挙げながらも黄海の戦いで討死したが、一族は代々続く。
藤原氏系波多野氏は平安時代末期から鎌倉時代にかけて、摂関家領である相模国波多野荘(現神奈川県秦野市田原付近)を本領とした在京役人で。坂東武士としては珍しく朝廷内でも高い位を持った文武両道の貴族武士である。一族は代々(従五位下権守等)に任官している。
経範から4代目の子孫・波多野義通は源頼義の子孫である源義朝に仕え、その妹は義朝の側室となって二男朝長を産む、保元の乱・平治の乱でも義朝軍の重鎮として従軍しているが、保元の頃に義朝の嫡男を廻る問題で不和となって京を去り、所領の波多野荘に下向したという。
5代目義通の子波多野義常(従五位下右馬充うまりょう)は京武者として京の朝廷に出仕し、官位を得て相模国の有力者となる。義朝の遺児源頼朝が挙兵すると、義常は頼朝と敵対し、討手を差し向けられて松田館で自害した。
この時代を「東鑑」には
治承4年(1180年)7月源頼朝の軍勢催促を拒否
波多野氏の頭領波多野義常は頼朝挙兵の誘いの使者、安達藤九郎盛長に対して冷たくあしらい。「波多野義常と山内首藤経俊は呼びかけに応じないばかりか いくつもの悪口さえ言っている。」と記録されている。
治承4年8月石橋山合戦 一族の中で河村郷(現山北町)に領土を持つ河村義秀(波多野義常の次弟)は平家側の大将大庭景親に恩を感じ大庭軍に参陣し大庭景親と行動を共に頼朝軍と戦う。
治承4年10月 波多野氏の頭領波多野義常に鎌倉源頼朝より追討令が発せられると追討軍(下河辺行平)の到着前に波多野義常は松田館で自害する。
同じく 10月 富士川の合戦では大庭景親・河村義秀は平家側として1000騎を率いて出陣するが、足柄峠で群衆する源氏軍に阻まれ、平家の大将平維盛軍に合流できずその場で軍を解散し、河村山(河村舘)にこもり、数日後源氏側の兄大庭景義を頼り頼朝に投降する。
戦後処理として
波多野本領は義常の次弟波多野忠綱が継ぎ鎌倉殿の御家人になり、後に実朝公の御首を守り、田原の地が歴史の舞台に登場する。
松田および河村領は縁者である大庭景義の管理下に入る、波多野義常の嫡男有常はのち許されて、松田有常を名のり旧領を安堵され、子孫は戦国大名北条氏の筆頭家老となる。
河村義秀は大庭景親とともに断首を命ぜられるが、大庭景義に匿われ10年後鎌倉八幡宮での流鏑馬神事で妙技を発揮し許され旧領を安堵され御家人に加わる。
敗者である波多野一族が源頼朝に敵対しながらも滅ぼされなかったのは、京都での地位・官位が優れ単なる荒くれの坂東武者と違った気高い気品を頼朝が悟ったのではあるまいか。 作家永井道子の相模の武士たちでは 相模の雄 「海の中村・山の波多野」と大いに賞されている。 次回はその後の活躍をみてみる。(終わり)