本誌52号に今泉上町生れの横溝さんが「震生湖・名称由来推察考」を詳しく寄せられ震生湖を大いに学びました。小生隣村の渋沢生れ、記事をきっかけにいくつか思いつき2~3記して見ました。
1、〈親達の心配なんのその、泳ぎを習う〉
終戦直後は湖周辺も未整備入、水自殺者(年2~3人)もあり子供は近づくなと言われていた。農家の子供達は小学校4~5年から畑の草むしり等普通にさせられていた。夏休みになると親も午後3時頃まで昼寝、夕方近く畑に出て行いた。この昼休み悪童たちは5~6人連れだって約4キロの山道づたいに震生湖へ、「震生湖・由来推察考」のとおり湖面に立ち枯木が何本も太枝も横に何本も、三尺フンドシの俺たちは最初湖面横に4~50メートル途中枯れ木につかまって休み、泳ぎを上達し後に湖の長い方縦にゆうゆうと泳げるようになっていった。フンドシを硬くしぼり首にぶら下げて渋沢に帰る頃は、フンドシよく乾き何くわぬ顔で午後の作業に加わっていた。
2、〈当時の平沢小原集落など〉
震災で南小学校の女の子が土に埋まって亡くなったり湖ができたりの小原地区、現在は研究所や大きな老人施設ができたりの小原地区ですが、人里離れた小集落路線バス等未開通何人かの勤人の方や旧制女学校の生徒さんは小田急渋沢駅まで4キロぐらい朝晩通っていました。
渋沢下集落は通過点で何人かの顔見知りも出来ました。中井町堺集落の北側、秦野市平沢小原集落は昭和20年代戸数30戸程ほとんど農家で、地区の東端道際に集乳所が有り煙草や麦搾乳しぼり牛を飼う等であり、中程より西に増珠院さんというお寺(今立派な寺院)終戦直後は屋根と太柱だけの住職さんどころか震生湖帰りの子供達の遊び場の時もあった。
寺院から更に西側南向段々畑の中に小さな観音堂があり、正月だったか初観音渋沢の子供達もお参りしたものだ。露店が2軒ばかり毎年出ていました。
観音堂の北の峰山道沿いに昔の焼場(火葬場)があり、近隣の伝染病で亡くなった人の火葬が行われていた(私の子供友達ともう一人焼かれたこと知っている)。震生湖への行来の山道沿いで、悪童たちは側を通るとき鼻をつまんで礼をして通ったものです。
3、〈観光地となる〉
前記した湖面の突出した材木も除かれ、周りの道路もやや広く整い貸しボートも何艘か浮び祝日等には近くの若者達ら集うようになった。
その昔娘さんのロングスカートが流行した何年頃だったか水際でスカートの裾が汚れないようそれを男若者がひやかしたり、小生がカメラを覚え近所の娘さん二人ボート遊びを撮って、いい画面四ツ切に伸ばしある展覧会に出品したり思い出しました。二人の娘さんは各々隣村へ嫁ぎ80才になろうと元気である。結婚といえば小原集落の豪農の娘さん震生湖で渋沢の青年と出会い嫁がれ、そのご主人は現在93才大型トラクターで畑にでていられる。小生の実家のすぐ近くの方で何十年もお世話になっています。渋沢青年団長、西秦野村青年団長、中郡西部同団長、秦野市農地理事はもちろん、神社・お寺の役員さん世の中の為に元気で尽くされ、ますますお元気震生湖ゆかりのカップルです。
令和3年5月記